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- 冬幻想花 - 第八話

第八話 『遥歩へ』
-for the dearest-

 遥歩へ

 いつも一つ屋根の下で暮らしているというのに、 こんな形でメッセージを伝えることになってしまって、申し訳なく思う。 常々からきちんと話さなければならないとは思っていた。 けれど、俺の弱い心はそれを恐れていた。 話してしまったら、今まで築いてきた関係が壊れてしまうのではないか、 心のどこかでそう思い続けていたからだ。 こんな文章を書くくらいなら、面と面とを向き合って、 きちんと話したほうがいいに決まっている。 だが、真実を話したら、君は必ず俺を止める。 君の気持ちには気づいていた。真っ直ぐに向けられた君の瞳。 俺だって一応君よりは年をとって、色々な人と出会い、 色々なことと遭遇してきた。 だから、君のそのまなざしは単なる親愛のそれではなく、 愛しい気持ちを含んでいることはすぐに解った。 しかし、俺はその気持ちに応えて良いのか、ずっと迷ってきた。 結果的に君に辛い思いをさせてしまって、本当にすまなく思っている。 ここで、すべて包み隠さず説明しておく。 君が何者なのか、俺が何者なのか。 冬幻想花の力、君の潜在能力、もう一人の君について。

 始まりは10年以上遡る。君のご両親である、 水奈月透、遥夫妻は、当時ある研究をしていた。 その研究とは人体複製実験、通称『レガシー』と呼ばれるものだ。 発端はもっと古くさらに10年ほど前、アメリカの大学教授によって、 クローン技術を発展させたものが世間に知れ渡った。 クローンという単語は恐らく聞いたことがあると思うが、 人為的に遺伝子を操作して、既存の生物のコピーを作る技術だ。 対してレガシーはそういった根本に迫るのではなく、 まったく別の方法で生物を複製させる技術だった。 エルフレイナ、冬幻想花の学名だが、あの花には人知を越えた不思議な力があった。 ごく小数、エルフレイナの持つ生物の固有の波長と共鳴できる者は、 その力を借りて幻を見たり、未来を見たりすることができた。 未だにエルフレイナの力の謎は解明されていない。だが、 その力は未知数であることは、どの学者の目にも明らかだった。
 エルフレイナの力が発見されてから数年後、 アメリカの研究施設で、偶然から人体の完全コピーに成功してしまった。 エルフレイナの謎を探るべく、 密室させた部屋に特殊な波長の電波を流してデータを取っている時だった。 モニタ越しに観察していた一人の研究者は、 エルフレイナが白い光を発していることに気が付いた。 慌てて部屋の中へはいり、花に触れたところ、まばゆい光に包まれて、 一瞬あとには隣に自分とうり二つの人間が倒れていたという。 その研究者がそのあとどうなったのかは知らないが、 研究者達の間では、特殊な波長の電波をエルフレイナにかけることで、 さらなる未知の力が引き出せるという噂が広まった。
 ただし、エルフレイナ自体がほとんど存在せず、 手にすることができたのはごく一握りの人間だった。
 君のお父さんも、その中の一人だった。
 水奈月先生は、偶然エルフレイナを手にしてしまった。 それまで人体複製などには興味など持ってはいなかったが、 エルフレイナの未知の力に惹かれて、そのまま研究を始めた。
 それからまもなくしてからだ。国連が人体複製に関する研究、およびその施行を禁止した。 日本では以前からクローン技術を規制する法律があったが、 これによってそれは全世界へと広がることとなった。 生物の存在をそうもたやすくコントロールできて良いはずがない、 と結論づいたからだそうだ。 かくして、全世界はクローン技術その他生物の複製に関する研究から身を引かざるを得なかった。 だが、納得できない研究者達も数多くいた。 そういう研究者達は、禁止されてからも影でひそかに研究をしていたりした。 調査が入らない限り、研究し続けているかなど、世間には知られないからだ。
 水奈月夫妻もそうだった。ただし、彼らはただ興味で続けているのではなく、 この複製が将来役に立つだろうと信じて、研究を続けていたのだ。
 俺が水奈月夫妻に出会ったのは、丁度そのころだった。
 他人に流されるのが嫌だった俺は、中学を卒業して家を飛び出し、 地方から上京してきた。ただ、東京は初めてだったので、右も左も解らず、 さらに持ち合わせの金も少なく、長くホテルに滞在することもできなかったため、 結局諦めて帰るしかないと思っていた。 だが、そこに水奈月先生が現れて、俺をかくまってくれた。 あとで聞くと、ただの迷子だと思って声をかけてくれたらしいが、 家出してきたと聞くと些か放り出すわけにもいかず、 結局は俺を水奈月先生の家に連れていってくれた。
 水奈月先生も遥さんも、平日はほとんど一日中研究所に通っていた。 俺は成績だけはよかったので、どんなことをやっているのか気になって、 研究所にも連れて行ってもらった。 そこで実験のおもしろさに気づいて、その道を歩むことになってしまったわけだ。
 ところで、水奈月夫妻には一人娘がいた。 遥さんの字を一字もらい、果てしなく続く人生という道を、 しっかり歩んで欲しいという願いを込めて『遥歩』と名付けたそうだ。 人見知りが激しいようで、初めて俺を見たときも、さっさと遥さんの背中に隠れてしまった。 まだ4、5歳だった遥歩は、ちっとも俺に懐かなかった。 平日は幼稚園に通っていたが、遥さんは夜遅くになっても帰ってこれない日もあったので、 知り合いの親が幼稚園に迎えにいくこともしばしばだった。 休みの日は、大体は近所の子供と遊んだりしていたそうだ。 時々は両親について研究所まで行っていたが、 そこでは結局誰も遊び相手がいないので、一人で木陰で本を読んでいることが多かった。 俺も水奈月先生にくっついて実験を手伝ったりしていたが、 内容が難しくなるとついて行けず、一人ぶらぶらと研究所の庭を散歩したりした。 そうすると、必然的に遥歩と接する機会が多くなる。 最初は怖がっていたようだが、次第に懐いてくるようになり、 俺のことをお兄ちゃん呼ばわりするようになった。 俺としても、もう少し年が上の妹がいたので、 二人目の妹が出来たようで、なんだか嬉しかった記憶がある。
 遥歩は本が好きな少女だった。暇があるとすぐに本をもって俺のもとへ来、 「ご本読んで」と甘えてくる。 俺にとっては、子供に本を読んで聞かせるのなんて退屈なことだっただろうが、 それでもどこか懐かしい感じがして、嫌いではなかった。 結局、実験の手伝いと遥歩のお守りと、半々くらいになってしまった。 だが、遥歩と一緒にいる時間は俺の心を癒してくれ、 いつしか俺もその時を望むようにもなっていた。
 このまま何もなく、平凡な日々が過ぎればいいと、 その時は本気で思っていた。
 だが、その日常は長くは続かなかった。

 ある初夏の日差しの強い日だった。 研究所に続くなだらかな丘の木陰で、いつものように遥歩に本を読んで聞かせていた。 すると、ふもとの方から水奈月先生に、俺に手伝って欲しいと呼ばれたので、 遥歩を一人残し、そのまま丘を下っていった。
 手伝いといってもは単純なもので、 モニタに映し出された順にキーを叩いていくだけの作業だった。 たまたまその日は休日で、他の研究者達が出てきていなかったので、 俺に頼んだのだった。 俺はその時まで、なんの実験を始めるのか解らなかったが、 遥さんが通りかかったので訊ねてみたところ、 それこそが何を隠そう、人体複製実験の最終段階だったというのだ。 それを聞いた俺はたちまち硬直してしまった。 間違えたらどうしようという恐れと共に、 本当に人間のクローンができるのか、期待もしていた。
 特になんの支障もなく、手はず通り進めていった。 そして、電波出力を最大にし、データの計測に入る時だった。 突然モニタが激しく発光し、そのまま何も移らなくなった。 慌てて周りを見渡すと、他の設備のいくつかも電源が落ちているらしく、 一瞬前より建物全体が暗く感じられた。 停電でもしたのだろうかと、上のフロアにいる水奈月先生のもとへと駆けた。
 階段へ出たところ、水奈月先生と遥さんにばったりと会った。 二人とも明らかに動揺し、切羽詰まった表情をしていた。 そこで、何があったのか訊ねたところ、信じられない返答が返ってきた。
 遥歩が誤って実験室に入り込んでしまったという。
 その時は、俺はまだことの重大さに気づいていなかった。 怪我でもしていなければいいな、ぐらいのことしか考えず、 水奈月夫妻を後ろから追いかけた。
 普段は立ち入りを禁じている地下の実験室、ひたすら階段を降りてそこへ向かう。 そして、部屋の中央を見たとき、俺は声を失った。
 冬幻想花を安置し、各方向から電波を流すよう、円形に作られたその部屋の中に、 遥歩は倒れていた。そして、その隣、遥歩と同じ顔、同じ体型、何もかもがそっくりの、 もう一人の遥歩が裸で倒れていた。 水奈月先生も一瞬声を失ったが、遥さんは真っ先に遥歩の名を叫びながら駆け寄った。 はっとして、俺も何が起きたのか理解できた。 実験は成功したのだ。そして、遥歩のコピーが作られたのだ……。

 ここからは、君にとって辛い話になると思うが、どうか最後まで読んで欲しい。

 先にコピーのほう、もう一人の遥歩について記しておく。 本来人体実験を行うはずではなかったので、水奈月先生も遥さんも慌てていたが、 とりあえず二人を場所を移して、別々の部屋で寝かせることにした。 もう一人の遥歩の方は、すぐに目を覚ました。 そして、驚くことに自分の名前や水奈月夫妻はおろか、俺のことまで、覚えていた。 コピーは完全に成功だった。いや、その時点では成功していたかに思えた。 後に、その遥歩は本当の遥歩となって、この世を生きていくことになった。
 問題はもう一人の、オリジナルの遥歩だった。 一日経っても二日経っても、目を覚ます兆候は見られなかった。 心配した水奈月先生は医者を呼んで脳波を計ってもらったところ、 常人よりはるかに乱れていることが解った。 つまり、人体複製はコピーよりオリジナルに負担が掛かるものだった。 医師が言うには、このままだと命に関わって来るという。 だが、対処しようにも、どうにも手が出せなかった。 下手に脳波を弄ると、現状よりもさらに悪化する危険性があるというのだった。 やむを得ず、水奈月先生は人体複製に備えて事前に用意していたコールドスリープカプセル、 つまり長期冷凍睡眠装置へオリジナルの遥歩を入れ、長いながい眠りにつかせることにした。
 もう解ったとおもうが、今存在している君は本当の遥歩ではなく、 コピーされたもう一人の遥歩のほうだ。
 以後、君のことを遥歩と言い換えて進める。
 遥歩は目立った問題もなく、健康に生活しているように見えた。 遥歩がコピーされた遥歩だと知るのは、俺や水奈月夫妻を含めて、 実験に携わった研究者数人だけだった。 そしてもちろん、遥歩本人にもそのことは言わなかった。 まだ幼い遥歩にとっては、真実を話しても理解できないか、 もしくは逆に耐えられない苦痛にさいなまれるかもしれないと思っていたからだ。
 遥歩の体に変化が現れたのは、実験の日から10日ほど経った頃だった。
 遥歩は急に40度をこえる高熱を出した。 水奈月夫妻も俺も、実験の後遺症が出たのではないかと焦った。 実際その通りだった。完璧だと思われた遥歩の体内は、実は免疫力がほとんどなく、 血液を採取して調べたところ、幾種ものウィルスが蔓延していた。 点滴と必死の看病でなんとかその時は持ちこたえたが、 免疫耐性上げない限り、またこういう状況に陥るのは明白だった。
 その日から、水奈月夫妻は2つの研究を同時に進めなければならなかった。
 一つは、遥歩の体に十分な抵抗力をつけるための薬剤の調合、 そしてもう一つは、眠り続けるもう一人の遥歩を無事に目覚めさせる方法だ。
 前者は、本来薬剤師ではない水奈月夫妻にとって難儀であったため、 知り合いの薬剤師に相談し、なんとかしてもらうよう手はずを踏んだ。 それまでは、定期的に抗原剤を投与して、免疫力を高めるしか方法がなかった。
 問題は後者だった。いたずらに脳波を弄るわけにはいかないので、 まずラットで現状を作り出し、そこから打開策を見出さなければならなかった。 それに、もし成功してもう一人の遥歩が目覚めたとしたら、 この世には遥歩が二人存在してしまうことになる。 人体複製実験はまだ試験段階だったので、実際このような状況に陥ってしまった今、 どうしていいのか、誰も解らなかった。
 ともかく、遥歩が二人も存在するのはやっかいなので、 今現在生きている、コピーの方を遥歩、 そして眠りについているオリジナルの方をアリスと呼ぶことにした。 これは、「不思議の国のアリス」が遥歩のお気に入りだったことに由来する。
 遥歩の幼少時代の出来事は、以上が大体の顛末だ。

 こうしてただ書き連ねるだけでは、水奈月夫妻の心意が読み取れないと思う。 実際、この事件で一番悩み、一番苦しんでいたのは他でもない、水奈月夫妻だ。 愛娘が実験体になるなど、夢にも思わなかっただろう。
 遥さんのほうなど、初めは夜もろくに寝られない状態で、 端からみるだけでもやつれきって、不憫でしょうがなかった。 そんな妻を支える水奈月先生にも、目に見えて疲れが窺え、 さらにはストレスも合い重なって、 今までしたこともなかった夫婦げんかもするようになってしまった。 しかし、遥歩という忘れられない存在がいる。 遥歩の前でけんかをし出すと、決まって遥歩は泣きながら俺のもとへ走ってくる。 そんな遥歩がこれまた不憫でしかたなく、何度か仲介に入って両者をなだめたこともあった。
 俺のことも書いておこう。 誰にも話したことはないが、この事件の最大の過失は俺にあると思っている。 あの時、先生に呼ばれた時に、ちゃんと遥歩をその場に待たせておけば、 こんなことにはならなかったのではないか。 俺の不注意が、遥歩の、他の人の人生を狂わせてしまったのではないか。 一人でずっと悩んでいた。 そして、俺は水奈月家を出る決意をした。
 研究所の近くにアパートを借り、18になって大学検定をうけ、 大学へ入学し、本格的に勉強しようと思ったからだ。 大学を出た後は、また水奈月先生の助手を務めたいと思っていた。 今度は単なる雑用や手伝いではなく、肩を並べて仕事をしたいと思っていた。
 俺が家を出ると言うと、水奈月先生だけは真意を察したようだった。 下手に気遣うこともなく、将来、一緒に頑張ろうとだけ言ってくれた。 その言葉だけを励みに、俺はしばらくの間、勉強に精を注いだ。
 遥歩にだけは、挨拶をせずに黙って出て行った。 俺がいなくなるといえば、遥歩はきっと泣いてすがりつくだろうと思っていたからだ。 後に遥さんと電話で話をしたときに、俺がいなくなったことで 遥歩は大泣きして大変だったと聞かされた。 遥歩にとっては、俺という存在は限りなく自分に必要な存在だったに違いない。 そして、その時既に、遥歩は俺にとってかけがえのない存在だったのだろう。 当時は気づかなかったが、今なら解る。あの時すでに、俺は遥歩に恋していたのだ。 10も離れた、まだほんの幼い少女にだ。今、君がこれを読んだら笑うかも知れない。 だが、恋の形などどうでもよいのではないか。 いくら滑稽でも、自分にとって大切な人がいれば、それで。

 それから10年あまりの月日が流れた。 俺は大学を出、大学院で博士号をとり、 そのまま大学で助教授を務めつつ、水奈月先生の助手も務めた。 もちろん、遥歩には内緒でだ。その時は、もう遥歩には会う気はなかった。 10年という、俺にとっては長い年月の中、俺は新たに恋もすれば別れもした。 遥歩と過ごした記憶は、色褪せないままの綺麗な形で、 俺の記憶にとどめておくつもりだった。
 一度だけ、大きくなった遥歩を見たことがある。 駅に向かって歩いている途中、向かいから数人の女生徒に囲まれた、制服姿の遥歩がいた。 顔つきなんかは昔のままで、くせっけも残っていて、一目でそれと分かった。 遥歩はまったく気づかず、そのままおしゃべりをしながら俺の横を通り過ぎて行ったが、 俺は見えなくなるまで、その後ろ姿を見つめていた。
 遥歩は立派に成長しているのだ。 水奈月先生の話では、結局抵抗力をつける薬はまだできず、 抗原剤を定期的に食事に混ぜて飲ませていると聞いた。 もちろん、本人はそのことに気づいていない。 それでも、他の正常な人間同様、着実に成長している姿をみると、 少し心が和らいだ。 あとは、アリスを目覚めさせるだけ。 俺自身の目標も、自然と定まっていった。

 だが、あの一連の事件はまだ終わってはいなかった。

 エルフレイナの力は、今や伝説と化し、ほとんどの人はその力を信じなくなっていた。 しかし、マフィアの類の連中は、そういったオカルトめいたことに興味を持ち、 過去にエルフレイナを所持していた施設を襲っていくつものエルフレイナを集めている、 という噂を耳にした。 これには恐らく、奇跡の力を欲しいがためではなく、 他の組織は研究施設に高値で売ることが目的だったのだろう。 まさか水奈月先生のところにまで手は伸びないだろうと踏んでいたが、 それもつかの間だった。
 東北の、水奈月先生と協力関係にある研究所が、武装集団に襲撃される、という事件が起きた。 目的は定かではない、と世間では言われていたが、 水奈月先生の話によると、その武装集団が奪っていったものの中にエルフレイナがあったという。 そのことを聞いた水奈月先生は今まで以上に警戒を強くし、 研究所からエルフレイナを移すことにした。 一輪は俺の大学の研究所に、もう一輪は俺のマンションに置くことにした。 そのころには俺はある程度金に余裕があったので、 高層マンションを買い、居住地を移していた。
 また、その一件があってからというもの、日本警察も徐々にクローン技術に関する研究を 取り締まる捜査を開始したとの情報が入った。
 アリスを目覚めさせるための研究、コードネーム「覚醒」は、 より慎重を極めて続けられることになった。

 しかし、それも長くは続かなかった。
 2030年8月、歴史にその名を刻む、大神災が勃発した。
 今でも鮮明に当時の光景が目に焼き付いている。遥歩もきっとそうだろう。 家々は崩れ、炎が街を包み、人々は恐怖におののいて走り狂う。 地獄のような光景だった。あの大地震によって、 建造物だけでなく、人の心も完膚無きまでに打ち崩されたことだろう。
 地震発生直後、俺はすぐさま研究所から脱出し、 丘の木の根本で肩を寄せ合う他の研究者達に混じった。 だが、その中に水奈月夫妻の姿はなかった。 誰かが研究所の中にまだ人が取り残されていると叫び、 俺を含め何人かが、崩れかけた研究所へ入っていった。 余震が来れば揺らいだ建物はすぐに崩れ去り、 あっという間に生き埋めになってしまったことだろう。 それでも、水奈月夫妻だけは見つけ出したい、 俺はそう強く思って、自ら救出に乗り出したのだった。
 地下1Fへ降りたところで、水奈月夫妻を発見した。 落ちてきたいくつものコンクリートの下敷きになりながら、 水奈月先生は遥さんをかばうように身を重ねていた。 だが、あたりには赤黒い血が流れ出し、声をかけても意識がはっきりしないようで、 二人とも虫の息だった。
 水奈月先生は、最後に一つだけ俺に頼み事をした。 残してきてしまった愛娘、遥歩の面倒をみて欲しいとのことだった。 遥さんも、涙を流しながら俺に懇願してきた。 二人とも、もう助からないと悟った上でのことだった。 俺が聞いた、二人の最後の言葉だ。 俺はしっかりと返事をし、それから地上に上がって救急車を手配し、 人手を集めて二人の救出を試みたが、 救急車がやってきたころには、二人はもう息をしていなかった。

 他の研究者達も、次第に散りぢりとなって帰路へつきはじめた。 俺は水奈月夫妻の意志を継ぐため、 もう二度と会うことはないと思っていた遥歩のもとへ向かうことにした。 途中、マンションに戻って唖然とした。 あの大地震、周りの家々は崩れているのに、 俺の住むマンションだけは何事もなかったかのように荘厳と佇んでいた。 後に、部屋に置いておいた冬幻想花のおかげで崩れなかったのだと理解できたが、 ともかく住居と、そして車が無事だったのが幸いだった。 車を地下の駐車場から乗りだし、所々亀裂の入った道路を進んでいく。
 遥歩は無事だろうか。そのことだけが頭の中に反芻していた。
 あとは遥歩の知っての通りだ。一人残された遥歩を連れ、 俺はマンションへ引き返した。
 約10年ぶりに会話をしたが、遥歩は当然のことながら、 俺を見知らぬ男性だと思いこんでいた。 無理もない話だ。遥歩は当時5歳、覚えていなくても当然だし、 仮に記憶力があっても、俺も成長して変わってしまった。
 だが、想い出の片隅にはあったかもしれない。 だから、再開したあの時、俺が自分の正体を明かしていれば良かったのかも知れない。 けど、それができなかった。なぜなら、俺はその時既に、 成長した遥歩に心を奪われていたからだと思う。 過去の関係を一切捨て、また新しく遥歩と接していきたいと思ったからだ。 それが、結果的にこんな幕切れになってしまって、皮肉なものだ。

 そんな理由で、俺と遥歩の新しい生活が始まった。 俺は今まで通り大学の助教授を務めた。水奈月先生の手伝いの仕事がなくなったので、 学会にも顔を出すようになり、色々と自分で研究をしてはみたが、 今まで以上に熱が入ることはなく、逆にそれでも時間が余ってしまうくらいだった。 遥歩は、高校が倒壊したことで休学、結局そのまま卒業になってしまった。 遥歩に大学を薦めたのは、俺がいる大学なら割と親しみを持って入学できるだろうし、 なにより家で暇をもてあますよりかはいいと思ったからだ。
 表面上は、遥歩と普通に接することができたと思う。 だが、俺は遥歩にいくつも秘密を抱えていた。 水奈月先生が一番気にかけていたのは、レガシーの後遺症だった。 遥歩は、自分の体に定期的に服用されている薬の存在を知らない。 だから、俺が食事を作るときは、遥歩の分だけに薬を混ぜる必要があった。
 また、定期的に身体の状態を調べる必要があった。 そのため、時々食事に睡眠薬を混ぜ、夜中の寝付いたころに血液を取ったり、 皮膚や関節を調べたりした。 今までは何事もなく、気づかれずに行えていたが、 この間一度気づいてしまったようだったな。 あの時は何か違う意味でとらえたようで戸惑ったけど、 その後に例のアイバーらに出会ったせいで、 そっちの話は棚上げになってしまって、正直ほっとした。 遥歩に距離を置かれるのは、俺にとって辛かったからだ。
 そう、彼らについても説明しておかなければいけない。 俺は彼らが何者かは知らなかったが、冬幻想花を要求してきたところで、 どこかのマフィアの一員だと悟った。 どうやってここを突き止めたのかは知らないが、 一度知られてしまった以上、逃げ続けるのは困難だと思った。
 冬幻想花を渡さない場合、最悪俺だけでなく、遥歩の身も危険にさらされる危険性があった。 だから俺は、奴らを殺る決心をした。 もちろん、今まで人を殺めたことなどない。 俺にできるのかどうかわからなかったが、遥歩を救うにはこの方法しかないと思ったからだ。

 明後日の夜、奴らと決戦をする。俺が無事で帰ってこれるとは思わないで欲しい。 向こうは犯罪のプロだ。良くて相打ちくらいだろう。
 キッチンの左上の棚に、瓶に入った錠剤と処方箋が置いてある。 それは、君の身体の抗原剤なので、少なくとも5日に一度は飲むように。 また、処方箋は駅前の内科へ持って行けば、同じ薬を出して貰える。 無くなったら買いに出るように。君の身体を守る、大切な薬だからだ。

 最後にもう一つ。冬幻想花に触れて君のコピーが生まれてしまったのは、 単に偶然というだけではない。君は冬幻想花を操る力を持っているはずだ。 出来れば、冬幻想花を遠ざけて生活して欲しい。 幻や幻聴に心を奪われないように。
 それと、何かあったら気兼ねなく今野先生に相談して欲しい。 彼女も水奈月先生のもとで同じように助手として働いていた仲間で、 今回の件、それに遥歩のことも全て知っている。 君は今野先生を嫌っているみたいだが、これからは頼れる姉貴分として接して貰いたい。
 最後の最後まで本当の名を名乗らなくてすまなかった。 俺の本当の名前は大野行彦。 このメッセージを読んでいる段階で、もしかしたら思い出していたかも知れないな。 願わくば、もう一度この名を遥歩に呼んで欲しかった。 お兄ちゃん、ではなく、一人の男性として、俺の本当の名前を。

 水奈月夫妻のためにも、俺のためにも、君には光に溢れる未来を歩んでいって欲しい。 世界は非情で、辛いことも沢山待ち受けるだろうが、 君は遥かなる道を歩むという、強い名前を備え持っている。 だからいつでも前を向き、自分の信じたとおりに、その道を歩んで欲しい。 今までありがとう、俺が二度愛した遥歩。

−−大野行彦



 部屋の中を柔らかい空気が包んでいた。 聞こえるのはパソコンからでるかすかな音だけだった。 わたしは圭一さんの残したメッセージを最後まで読み終えても、 しばらく微動だにできなかった。
 今まで何も知らなかった。わたし自身も、お父さんも、お母さんも、そして……。 知らないのはわたし一人だけだった。
 手の平にぽつりと涙が滴り落ちた。いつの間にか瞳からは、 大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちている。 わたしはパジャマの袖で涙を拭き取る。そしてもう一度パソコンの画面を見つめた。 『自分の信じたとおりに、その道を歩んで欲しい』 その言葉がやけに目に付く。わたしは瞼を閉じた。
 圭一さんの顔が浮かび上がってくる。 いつもやさしく、わたしのことを気遣ってくれる、 頼りになる圭一さん。 圭一さんもわたしのことを愛してくれていたのだ。 そのことがわかっただけでも十分だ。わたしの迷いも消えた。 今、わたしがすべきこと。たとえそれが間違いだとしても、 わたしは圭一さんのいう通りに、わたしの思った通りにする。 わたしは圭一さんと共にある。
 パソコンの電源を落とし、ゆっくりと立ち上がった。 もう薬を飲んでも間に合わないだろう。わたしの身体は限界にきている。 圭一さんは、光に溢れる未来を歩んでいって欲しい、と残していったが、 残念ながらそれには応えられなかった。 だから、わたしは最後の力を振り絞って、圭一さんを迎えに行く。
 冬幻想花よ、もう一度だけ、わたしに力を貸して……。

第七話

第九話